靴を贈るように

創作上のキャラクターの尊厳や幸福について考えるのはいつだって独り相撲で、わたしはずっとそれをしている。それをすることは高尚でも偉大でもなく、むしろ滑稽ですらあるし、苦しいことがたくさんあるが、わたしはそうしなければ、彼らを好きではいられない。わたしがそういう性質であるだけだ。

「〇〇をしあわせにしたい」というとき、それは「自分が〇〇をしあわせにしたい」ということだ。この「自分が」を無視することはできない。

「〇〇のしあわせ」「〇〇にとってのしあわせ」とはなんだろう。仮にそれを考えたところで、それも結局「自分の思う〇〇のしあわせ」でしかない。彼らは答えをくれない。

人間同士だって、何もかも全部をわかりあうことはできない。ただコミュニケーションを重ね、歩み寄る努力をするだけだ。それでも、その努力はできる。彼らとはできない。

ひとは皆それぞれ違い、自分の想像力の外側で生きている。だが「自分の思う彼ら」は、自分の想像力の外側に行けない。それを悲しく思う。せめて、決して自分には埋められない余白の存在を意識することしかできない。

人間同士の場合も同様だが、「〇〇のため」というとき、本当にその相手のためになっているのか、考え出すときりがない。単に自分がしたいことをしているだけだと開き直れるひとのほうが余程カッコよく見えるが、それはその言葉の裏にやさしい思索があればこそだ。

けれど、こんなシチュエーションの推しが見たい、という欲望であっても、気取らないほうがきれいに見えるような気がする。欲望とは自分本意なもので、それでいいじゃないかと思う。

「〇〇のしあわせ」について考えたところで、わたしがどこかに至ることはないだろう。それでも考えてしまうのは、単にわたしがそうしたいからだ。〇〇にしあわせでいてほしいからだ。

最近わたしは、「〇〇がしあわせになりたいと願うとき」について考えている。わたしは彼らにしあわせでいてほしいけれど、彼らがしあわせになりたいと願うことがあるのだとすれば、それはいつなのだろう? どのようにしあわせになるのだろう?

 

別に何も変わらない。結局いつものように独り相撲をしているだけだ。それでも、すこしでも、彼らの立場に能う限り寄り添って、彼らの靴を履くように、彼らのしあわせを考えたい。

恋人に靴を贈ると別れるというジンクスがある。その靴を履いて遠くに、あるいは別のひとのもとに去っていってしまうのだと。

それでもいいじゃないか、と思う。彼らに靴を贈るように、わたしは彼らのしあわせを欲している。そう欲することを、願いや祈りと呼ばせてほしい。それもわたしのエゴだけれど、靴を贈るように、彼らのしあわせを、祈っている。その靴を履いて、彼らがわたしには想像もつかないようなところに旅立つことを。

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