昨年7月19日にふせったーにアップロードした文章を再掲します。
亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。また、被害に遭われた方、そして彼らの人生や仕事を愛している方々が、すこしでもすこやかにあることを願います。
わたしは、言うほど京都アニメーションのファンというわけではなかった。執念さえ感じる繊細で丁寧な芝居、きらめきあふれる緻密な背景、時代を切り開くような絵柄の変化、心底素晴らしいことだと思うが、そういったコストの割き方が好みに合うかと言われれば、あんまり合わない。もちろん好きは好きなのだけれど、自分にはこってりしすぎている。
しかし、しかしそれでも、それはあくまでも好みの話であって、フィルムに込められた情念とも呼べるほどの熱量は、確かに感じていたつもりだった。彼らのこだわりぬいた仕事は素晴らしく、敬意を払われるものであると心から思う。そんなわたしでさえこんな気持ちなのだから、いわんやファンをや……
普段は、芸能人やクリエイターの訃報を見ても、それに関するツイートはしないことにしている。わたしはどうも他者に心を配ることが難しいタチらしく、何かで頭がいっぱいになるということが基本的にない。だから、お悔やみ申し上げますだとか、ご冥福をお祈りしますだとか、そういうツイートをした直後に流れてきた情報に飛びついて、はしゃいだツイートをしてしまうことだってできる。なんだかそれはかえって不誠実な気がして(他者からどう見られるかではなく自分の中の折り合いの問題)、そういったことは自分の心に留めている。
けれど、先日の事件がわたしに与えた影響はすさまじかった。本当に、何かひとつの出来事で頭がいっぱいになって、ダメージを受けて、何も手につかなくなるようなことが、わたしの身にも起こるのだと、はじめてわかった。わたしでさえこうなのだから、普段から愛する人々の訃報や遠方の災害に心を痛めている人は(こういうことに大小をつけるのはひじょうによくないことだが、わたしより余程……と思う人はたくさんいる)、彼らの仕事を心底から愛している人は、どれほどの気持ちなのだろう。
これは先日のツイートの引用だけれど、
ニュースになるものもならないものも、歴史に残るものも残らないものも、様々な形で人や物が傷つけられたり損なわれたりしているけれど、自分にとって親しみがあったり尊敬していたりするものがそういった憂き目にあったとき、そうでない出来事よりも悲しい気持ちになることは罪ではない、と思う。
人間という限られた存在がすべてのものにひとしく共感することはできないし、あらゆる事象と自分の間にはそれぞれの距離がある。その距離が近かったり、あるいは遠くてもひときわ輝いて見えたりしたものに、特別に心を砕くことを、やましく思う必要はないと思いたい。
と、いうことをツイートしたのですが。
ただ、それを表現するのは本当に難しい。言葉はままならない。たくさん取りこぼすし、望まない伝わり方をすることもある。平素なら働く想像力が、この雰囲気に飲まれて機能しないこともある。インターネットではなおさら、そういった「わたしの人生の話」に過ぎないものが、普遍的な倫理を脅かす思想であるかのように受け取られてしまうことがある。
人間個人は別に不平等でもいい。あらゆる生命がひとしく尊いのは大前提だ。だが、一つひとつの生命が自分の人生に与えたインパクトの大きさはそれぞれ違うし、だからそれが喪われたときの心の揺れ方も違う。それでいい。それでいいということにしないと、やっていけないから。
これは今回はじめて痛感したことだけれど、その喪失の方法によっても違う。違った。違うということに気づいた。
たとえばこれが事故や災害だったら、きっとここまでの気持ちではなかった。たったひとりの人間がこうもたやすく……、そしてその標的にアニメーションを作る人々が選ばれてしまった、という、これらのことがわたしにとっては途方もなく大きい。
まず何よりも彼らの生命、彼らの健康、彼らの人生、彼らの仕事が脅かされたことがショックだ。これは大切な前提。
その上で、それを取り巻くインターネットもかなり厳しいものがあったし、これからこの件がどう報じられていくのかも、とてもとても恐れている。
様々な語り口があるだろう。有数のテロだとか、火災対策だとか、セキュリティだとか、アニメオタクだとか、あるいは今年の某映画や某今期アニメの題材だとか。如何な視座であれ、そこには慎重さが求められる。
倫理観に欠けていると感じてしまう発言をする人、言葉にしたくて慎重に表現を探る人、何も言いたくない人、いろいろな人がいる。いろいろな人がいるなあ、と思う。
わたしは集団制作物としてのアニメーションが好きで、だから、それに関わるすべての人が尊重されてほしい。ネームバリューの差異こそあれ、クリエイターはみんなアニメーションを愛していたはずで、たくさんの時間や情熱をそれに費やしてきたはずで。もちろん自分の知っている人を特に気にかけるのは当たり前だし、自分の好きな作品の今後が気になるのも当たり前だけれど、こんな状況なのに、と思ってしまう自分がいる。フィルムには彼らの人生の熱量が滲んでいる。まず何よりも彼らの生命が、人生が。それはアニメーションへの興味以前の倫理観の問題なんじゃないか、とか、やっぱり思ってしまう。やるせない。悪くない。その気持ちは悪くないし、責めようとも思わない。それでも、思うだけ、許されたい。
こんな状況で、ああこの人のことが本当に好きだな、とか、この人のツイートを今は見たくないな、とか、そういうことを思ってしまうこと自体が、たぶん負担だ。彼らを想う気持ちはたしかにあるけれど、他方でこういう個人的な感情に苛まれていることが、申し訳ない。もちろんこういった心の動きは咎められるようなものではない。仮にわたしがそれを否定したとして、もしこれを読んで共感してくれる人がいたとしたらと考えると(いやわからんけど……)、やはり否定すべきではない。自虐を発信することはもはや加害だ。
この申し訳なさを、せめて誠意と呼ばせてほしい。そう思っている。
表現するのも恐ろしいほどの途方もない気持ちをそれでも表現したいとき、挨拶という定型句があるのはひじょうにありがたいことだ。自分で一つひとつ言葉を探るのは難しい。当たり障りがないだとか、ややもすれば冷淡に思えるだとか、いろいろと見方はあるだろうけれど、それでも、もう挨拶しか残されていないという局面は往々にしてある。
というか、極限の状態では、何かいいことを言おうとしている人が腹立たしく思えることがあるのだ。もちろんその人はそんなつもりはなくて、必死に言葉を紡いでいるのかもしれない。いま必要だと判断した情報を発信したいだけなのかもしれない。わたしだって他者からそう見られているのかもしれない。けれど、そういうことを慮る余裕がなくなってしまう状況というのはある。これはここ数年の災害のときも漠然と感じていたことではあるけれど。
言いたいこと、言いたくないこと、好ましく思うこと、気持ち悪く思うこと。何もかもままならない。
祈りは偉大だな、と思う。今はまだ、喪われたものの大きさや必要な支援について考えるだけの余裕がない。ただ祈っている。何に何を? それすらも曖昧だが、わたしはもうすこし祈っていたい。本当は、ご冥福を、とか、お悔やみを、とか、そういうことさえまだ言い難い。けれどこれらは挨拶だから、このどうしようもない気持ちを受け止めてくれるかな、と期待して、言っておく。
亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。また、被害に遭われた方、そして彼らの人生や仕事を愛している方々が、すこしでもすこやかにあることを願います。
昨年7月19日にふせったーにアップロードした文章を再掲しました。
あのときの気持ちが遠くに流れていってしまうのは嫌だ。あまりにも大きいことだから、ずっと抱いておくのは、不義理かもしれないけれど難しい。それでも、大きな出来事として、ずっと残っている。失くしようもなく。
※コメントは最大1000文字、5回まで送信できます