作品を咀嚼する、作品を消化する、などの物言いがあるように、鑑賞した作品が己の血肉になるイメージは、わりに多くの人間が共有しているのだろう。
わたしもそのイメージを持っている。新しく鑑賞した作品が、自分のこれまで積み重ねてきた血肉と呼応して、自分の分かち難い一部になる。そういうことを日々繰り返している。
『MIU404』は今や間違いなくわたしの血肉だが、もはやそれでは収まりきらない。どうかこの先、わたしの心臓の一部であり続けてほしい。そう思っている。わたしの全身をめぐる血液が、この作品によって送り出されたものであってほしい。そうやって歩きたい。そうやって走りたい。そうやって生きたい。
ふざけているのかと思われそうだが(本当はこんな前置きもしたくない。わたしにとってはどこまでも真実だから)、この作品のすべてが、わたしの心象風景と言ってもいいほどに、わたしの心に寄り添ってくれるものだった。これはわたしのためにあるのだと心底から感じたし、間違いなく、わたしの人生における祝福のひとつだった。
一応述べておくと、わたしがこの作品を自分のものだと感じることは、あなたが同様にあなたのものだと感じることと矛盾しないし、あなたの鑑賞体験を阻害するものではない。
本当に人間が憎かったときは、感情の奔流に自分の輪郭さえ掻き乱されて、何もかもめちゃくちゃだった。自分をつらぬいているはずの軸がまったくなくなってしまう。みんな死ねばいいし世界は滅びればいい。人間が汚い肉袋にしか見えない。人間に尊厳を見て取るだけの価値が感じられない。そして悲しい。人間を尊重していたいのに、人間はわたしが尊重したくて足掻いているものを尊重してはくれない。彼らはとっくに自分が無邪気に蔑ろにしたものを忘れている。わたしは動けない。悲しい。
以前は、世界の破滅と幸福を願う心を同量ずつ持っていた。どちらも捨てきれなかったし、捨てるべきではないとも思っていた。けれどもはやそれは不可能だった。祈ることができない。すくなくともあの頃と同じには。
それでも、『MIU404』はわたしの人生を訪ねてくれた。わたしの人生に間に合った。
歯を食いしばって足を踏ん張ってそれでも正しく生きようとする彼らがいてくれてよかった。
今にも閉じそうな伊吹藍に、志摩一未が逡巡ののちに「安心しろ。俺も許さない」という言葉を差し込んでくれてよかった。あのとき羽野麦が桔梗ゆづるに「ありがとう……一緒に戦ってくれて」と言ってくれてよかった。
そして何より、彼らが地獄めいて痛苦と不条理に満ちたこの世界で、それでも生きろと言ってくれてよかった。
『MIU404』9話と出会ってからは、何かを憎んでも怒っても、自分の輪郭が砕けてしまうことはない。ちゃんと立っていられる。自分が大丈夫だとわかる。とてもうれしい。憎悪や憤怒がなくなったわけじゃない。許せないものは依然として世界にたくさんある。けれど、もう生きていけないとは思わない。
わたしはしばしば、世界の複雑さを引き受けるということについて考える。何かを知り何かを学ぶとはそういうことだ。
誰もが世界をより複雑にする要素であるこの世界で、しかしその複雑さを引き受けようとしているひとは、たぶん、そう多くはない。この世界には、おかしくて異常でどうでもいい排除すべきものがたくさんあるらしい。
けれど、わたしだって何もかもを引き受けているとはとても言えないし、人間という限りある存在が何もかもを引き受けられるとも思わない。それに、引き受けたところで、何かが魔法のように解決するわけではない。
こんなややこしい言い方をしなくても、結局は簡単なことだ。自分の望まない形でひとを傷つけることが、すこしでもすくないといい。それだけ。それだけのことが難しいどころか、めちゃくちゃに人間を傷つけたい瞬間すらある。しかしわたしは世界でいちばん弱いわけではない。どんなに傷ついていても他人を傷つけていいことにはならない。悲しい。
こうして書き連ねるとダブルスタンダードだとか言われそうで嫌だが、生きていくということは日毎に複雑になっていくことなのではないかと思う。だが、あなたがこれを理解する必要はないし、誰かに理解されるために単純になることはしたくない。ここに書かれていることも決してすべてではない。
『MIU404』のねらいがどこにあるにせよ(集団制作物である以上、そのねらいはひとつではないだろう)、『MIU404』に出会ったわたしは勝手に救われた。わたしのピタゴラ装置として、『MIU404』はきっと素敵なものだった。それでいい。そういうものをこそ、わたしは愛しているから。
そういえば、ルーブ・ゴールドバーグ・マシンは当初は複雑さを揶揄する意図のものだったらしいが、今では『ピタゴラスイッチ』でおなじみの複雑さを楽しむエンターテイメントの側面が強いだろう。複雑さを楽しめるほど乗りこなせればいいが、自分がその渦中にいるとそうもいかないものだ。
却って陳腐な言い方だけれど、『MIU404』11話を観て、本当に、心の底から、生きていてよかったと思った。自分も他人も殺すことなく、生きていてよかった。そして、今ここにいるわたしの背後にあるのが、他のどの道でもない、わたしが辿ってきた道でよかった。
未来への希望は過去への慰撫でもある。今ここにいるわたしのこれまでとこれから。『MIU404』はわたしにその両方をくれた。
これから。これからのことを考えるとき、『MIU404』がずっとわたしの心臓の一部であってほしいと、今ここにいるわたしは思う。様々なスイッチを経て変化する未来のわたしがどう思うのかはわからない。けれど、未来のわたしが背後を振り返ったとき、そこに必ず『MIU404』があることは、とても素敵だと思う。どんな場所であれ、そこは『MIU404』なくして辿り着けなかったはずの場所だ。そういう得難く、貴重な、かけがえのないもの。
わたしを大丈夫にしてくれたものが『MIU404』でよかった。救われるということは、何もかもチャラになるハッピーエンドではない。それでも、自分の人生を物語るのは自分なのだから、今ここにいるわたしは、『MIU404』に救われたのだと語ることができる。そんな瞬間のある人生が祝福でなくてなんだろう。救済でなくてなんだろう。
再び世界に絶望することがあったって、それはそれだ。でもきっと、そんなことがあれば、『MIU404』は未来のわたしの足をよりよい方向に動かしてくれるだろうと、現在のわたしは期待している。どうだろう? 世界は思いもよらぬ方向に転がるから、ひょっとすると難しいかもしれない。けれどそのとき、伊吹と志摩も同じ世界で生きているのだと思うと、やっぱり大丈夫な気がしてくる。大丈夫だ。たぶん。そう思える今があるだけで、この上なく満たされている。
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