家にはたくさんものがあり、けれど手ぶらで街に出る

ジャケットを着るのが苦手だ。別に着たままでも構わない、むしろ着たままのほうがちょうどよい気候であっても、用が済んだらジャケットを脱いでしまう。

「ジャケットを着たひと」として街を歩きたくない。いかにもビジネスパーソンっぽい鞄も持ちたくない。オフィカジっちゃオフィカジくらいの服を着て、ノースのリュックを背負って、適当なローファーを履いて、わたしは平日の街を歩く。

かといって奇抜な格好がしたいわけでもない。ぜんぜんそこらじゅうにいるような格好でいい。特別スーツが嫌というより、「〇〇っぽい格好」が嫌だ。就職活動中にいちばんいやだったのは、いかにも就活生然とした格好で街を歩かねばならないことだった。

別に、誰かがとりわけわたしを注視していることなんかないだろうと思っている。だが、他人の目がどうであったとしても、わたしはわたしを見ている。そこに映るわたしに、「何者かっぽいわたし」であってほしくない。今ここにいる理由が不透明な存在でありたい。当たり前にそこにいて、でもその当たり前にはなんの理由もいらないような。

そう考えると、Twitterでも同じだ。何者にもなりたくない。わかりやすい自己紹介なんかいらない。どこから来てどこに向かうのか、なんのアタリもつけられなくていい。他人がわたしに納得する理由は何ひとつなくていい。帰属するアテなんかいらない。期待も裏切りもない。ただ今ここにいるだけのひとでいたい。

たとえ自分を説明する身分や属性があったとしても、どう振る舞うかはわたしが決める。それは秘密や擬態ではない。知る者や察する者はいるだろうし、会話の流れによってはそれこそ“ふつう”に大抵のことは話す。だがそれは、わたしに納得する理由を誰かに与えているわけではない。

わたしがあまねくすべてに対してやさしく正しい人間であることはありえない。わたしにはわたしの優先順位があり、それはわたしの気持ちによって決まっている。それでも何かを慮りたいとき、振る舞いを考える。

わたしの気持ちには、わたしの優先順位がある。当たり前だ。わたしは卑小な一個人に過ぎない。それでも何かを尊重したいとき、振る舞いを考える。

様々なことを考えている。こんなところではとても言えないようなひどいことを。わたしが考えてきたこと、飲み込んできたこと、口に出してきたこと。わたしにとって大切なものは簡単に軽んじられてしまうもので、けれどそのことに対して、声を上げるなんてことは違う。そんなことがしたいわけじゃない。

何者にもなりたくない。何者でもない者に追い風は吹かない。それは別にいい。それがわたしの、わたしだけの気持ちだ。
でも最近、何者にもなりたくない人間は、有害で、間違っていて、どこにいてもいけないような気がしている。あるいは将来、数々の「何者か」の寄与した未来には、もう自分の居場所はないだろうと感じる。

あと何度の呼吸でなくなるのかわからない有限の酸素を吸って生きている。そういう気分だ。わたしは街を歩くのに、何者にもなりたくない。

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