あるときの彼は、薄汚い中華料理屋で働く香港人だった。
そこで彼が働く様子を、インカム越しに聞いたことがあった。俺が勝手に盗聴器を付けただけだが、彼がわざわざそれを取らないということは、聞かれても構わないということなのだろうと受け取って、空いた時間に耳を傾けていた。
彼の広東語は完璧だった。といっても、俺自身は北京語が多少わかる程度なので、精度の程はわからない。しかし彼は、北京語よりもはるかに習得が困難とされる広東語で、誰からも疑われることなく働いていた。彼は北京語も喋れるらしい。
その中華料理屋の店長が彼の狙いらしかった。彼の強みは情報収集の手段の多さだ。路地裏の風俗から富裕層のパーティーにまで、あらゆる場所に潜り込む。どこにいたって目立つのに、なぜか群衆に許される。不思議な男だった。
俺が彼に感服したのは、彼が二人組の男に話しかけられたときだった。彼らはただ一言ちょっとすみません、と言っただけだったが、バーボンは狼狽を隠すように憤りを滲ませた声で言った。
「不法滞在違います、叔父のため日本います、ビザちゃんとあります」
そのとき彼は、間違いなく日本人ではなかった。あまりに人間離れした技だと思った。それを母語とする人間が片言の真似事をしても、所詮は真似事にしかならない。彼のそれはどう聞いてもネイティブスピーカーではなく、完全に中国人の片言の日本語だった。
アジア人が欧米人の顔を見てその民族を判別することは困難だが、アジア人同士でならある程度は判別できる。そしてそれは欧米人には判別の付け難いものだろう。バーボンの顔は、一目見てアジア系であるとは思うが、それ以上はよくわからなかった。どこかとのハーフなのだろうか。俺自身も幼少期をアジアで過ごしていないので識別能力が欠けているが、それにしたって随分とよくわからない顔だった。おそらく、それは幼いからなのだろう。童顔という印象が民族を超越させている。そして金髪と褐色の肌膚。これがさらに彼の故郷を撹乱させる。だからこそ彼は、己の軌跡を無数に偽装するのだろう。
……彼はどこから来たのだろう。
「我々はこういうものです」
男のひとりがそう言った。おそらく警察手帳を出したのだろう。その途端、バーボンは何かを中国語で捲し立てた。アメリカにいた頃、チャイナタウンで聞いたことがある中国語そのものだった。
「この店の店長となっている江志明さんについてお伺いしたいことがあるんですが……」
「日本語は通じないみたいだな。出直そう」
「そうですね。……失礼しました」
薄らと遠ざかる足音が聞こえ、男たちは去ったようだった。店内に戻った彼は、他の男と長い間話し込んでいた。その男が件の店長なのかは確信が持てなかった。
暫く会話を聞いていると、男が北京語を話していることに気づいた。北京語話者と広東語話者がある程度は各々の言語で会話できるという話は耳にしたことがあった。バーボンの言葉はさっぱりだが、相手の男の言葉は断片的に聞き取れた。俺の耳に間違いがなければ、男は一度こう言っている。
「我想跟你在一起」
――きみとずっと一緒にいたい。
ついぞ客が来ることのないまま、日は暮れ落ちてしまった。
「これどうぞ」
その晩、またいつのも酒場で、彼はそう言って盗聴器をカウンターに置いた。俺のバーボンはすっかり氷が溶けていて、随分と薄くなっていた。
「あなた、広東語はわかるんですか?」
「いや、北京語すら危うい」
「ならつまらなかったでしょ。せっかくたくさん面白いことを喋ってたのに」
「ホォ――、それは残念だ」
その言葉がどこまで本当なのかも、俺にはまるでわからないのだった。
「仕事は終わったのか?」
「いえ、これから大詰めなので」
「成程。ここから先は有料というわけか」
「企業秘密ですよ。次からはすぐに叩き壊します」
そう言うと、彼は俺の飲んでいたバーボンに盗聴器を沈め、こちらに一瞥もくれずに立ち去ってしまった。怒っているのか許しているのかわからなかった。
彼がその後どうやって目当ての情報を入手したのかはわからない。しかし、一度彼がひどく真面目くさった顔で中国語のポルノビデオを観ていたことがあり、俺は口の中が苦くなるような気がした。どうしようもない煩悶を抱えながら煙草を取り出し火をつけた。においを嗅ぎつけたのか彼は振り返ったが、一瞬だけ俺に目をやると、淡白な表情のままで前に向き直った。
「香港は、中国や韓国とは違ってポルノ文化にそれなりに寛容なんですよ。……ありがたいことにね」
おそらく俺は「企業秘密」の真相に至る手掛かりを持っているのだろう。しかし、それを手掛かりだと看做すことで得られる真相――彼はベッドの上でも完璧な香港人であるための「勉強」をしている――は、胸の奥を重く濁らせるものだった。
それを彼の裏切りだと思えるほどの傲慢を、俺は持つことができなかった。彼は俺にとって何者でもなく、彼にとってもまた然りなのだろうから。
――He is an alien.
※コメントは最大1000文字、5回まで送信できます