夜は追い風

かおちさ:夢を見る千聖の話です


 

 夢を見た。それが夢だと、白鷺千聖はすぐにわかった。なぜなら、レオンが今と変わらぬ成犬なのに、まだ千聖が毎日のように顔を合わせていた頃の瀬田薫が……かおちゃんがそこにいたからだ。そして千聖は今のまま、高校三年生の肉体だった。
 薫は、そのちいさいてのひらに水筒の水を注いでは、レオンの鼻にかけてやっていた。それは千聖の中にはない思い出で、不思議な夢だった。
「どうしたの?」
 夢を見ているということは、今の眠りはきっと浅い。それにうんざりしながらも、千聖は薫に声をかけてみた。
「元気な犬の鼻は湿ってるものだって、テレビで言ってたんだ。レオン、なんだか元気がないから。鼻を濡らしてあげようと思って」
 どきりとした。
 レオンはもう随分な老犬で、たしかにあの頃より鼻が乾燥しがちだった。行きつけの獣医に診てもらった限りでは特に重篤な病はなく、加齢だろうということだった。それでも毎日の散歩を催促するくらいにはまだまだ元気だ。
 たしかにあの頃の薫が今のレオンを見たら、鼻を濡らしてあげるくらいするかもしれない。たとえそれになんの意味もなくても。あるいは、今も。……今なら流石に動物病院に連れて行こうとするだろうか。
 いずれにせよ、薫はやさしい。昔も、今も、ずっと。
「レオン」
 そう物思いに耽っていると、あの頃よりすこし低くなった声がした。視線をやるとそこにいたのは今の薫で、千聖は心底驚いた。急に姿が変わったことにではない。まったく気配が変わらなかったことにだ。
「大きくなったんだね」
 レオンは元気に鳴いて、薫にじゃれついた。薫はしゃがんでそれを受け止めて、丁寧に丁寧にレオンの毛並みを撫でていた。レオンも、薫も、大きくなっていた。
 千聖にとっては、たしかにレオンはすっかり大きくなったけれど、何もかも今更だった。大きくなったどころか老いつつある愛犬に、すこしでもすこやかに長生きしてほしいと願うようになってしばらく経つ。それなのに、薫は。
 かおちゃんと過ごしたあの頃、を想うことは稀にあった。今の薫の不可解さについても。
 けれど、薫のいない年月を想ったのは、それがはじめてかもしれなかった。
「そうね、もうすっかり……大きくなったわね」
「……儚いね」
 大仰な仕草も口調もなく、落ち着いた言葉だった。
「……ええ、儚いわね」
 薫がやわらかく微笑して、自分がどんな顔をしているのか、確かめる前に目が覚めた。
 ほんとうに、ただの夢だ。夜を置いて、千聖は今日もPastel*Palettesのメンバーとして、現場に向かう。これからも夜は訪れて、私を朝へと送り出す。太陽とともに見る夢のために。

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