Dear Bear

瀬田薫夢:怪我をしたぬいぐるみを治して持ち主に返すお話です


 

 ぼくの名前はベアンと言います。ご主人さまと出会う前は、ミッシェルと書かれたタグをつけられていましたが、ぼくを見つけたご主人さまはそれを外して、ぼくをベアンと呼びました。だからぼくはベアンです。
 それまでのぼくはたくさんのぬいぐるみに囲まれて、天井にある大きなアームが動くのを眺めていました。あるときそのアームがついにぼくを捕まえて、そうしてご主人さまの腕の中におさまったのです。
 ぼくとご主人さまはとてもなかよしです。どこに行くにも一緒、たくさん遊んだあとに眠るのだって一緒。ご主人さまはやさしくて、ぼくはご主人さまが世界でいちばんだいすきです。

 あるとき、ご主人さまは、お遊戯を観に行くのだと言いました。当然ぼくもついていきます。ご主人さまが危ない目に合わないように、ぼくがご主人さまを守るのです。
 お遊戯は公民館で行われました。ご主人さまが通っていた幼稚園にも来たことのあるハロー、ハッピーワールド! というひとたちが、ちいさなステージでお芝居をしています。おなかが痛くて笑顔になれない子がお医者さんに診てもらったり、注射が怖くて泣いていた子がお医者さんに褒めてもらったり、そうして最後には笑顔になる話でした。ぼくにそっくりな看護師さんが、何度も「怖くないよ」と言ってくれました。
 そういえば、ご主人さまはもうすぐ予防接種なのだとママが話しているのを聞きました。そのときはたくさん応援しなくてはなりません。
 お遊戯の最後はみんなでダンスを踊りました。黒い服のひとたちが運んできた楽器を手にとって、音楽会のはじまりです。ご主人さまはとっても楽しそうで、ぼくもご主人さまと手を握ってたくさん踊りました。

 まだ陽が沈むまで時間がありますが、暗くなっては危ないので、おやつの時間に解散です。子供たちが一斉に公民館の外に向かったので、ご主人さまはすこしまわりの子とぶつかってしまいました。その子はすぐに「ごめんね」を言ったので、ぼくはご主人さまを見つめます。ご主人さまがあんまり痛くないみたいでよかった。あやまってくれたし、怪我もないね。ご主人さまが「いいよ」と言うので、ぼくはうれしくなりました。ぼくのご主人さまはなんて素敵なんでしょう!
 ……あれ? ご主人さまが悲しそうな顔をしています。ああ、泣かないで、ぼくはきみがいちばん好きだよ。どうしたの。
「ベアン、足……」
 足? おや、たしかに、足の感覚がありません。どうやら足がやぶれてちぎれかけているみたいです。たくさんおでかけしてきたので仕方がありません。きっとさっきのはずみでついに糸が切れてしまったのでしょう。
 ご主人さまは堪えきれずに声を上げて泣き出してしまいました。最近は転んだって泣かないのに。ご主人さまに笑顔になってほしくて、ぼくはたくさん涙を吸いました。
 ひょっとしたら、ぼくは捨てられてしまうのかもしれません。ぼくがいなくなっても、ご主人さまがよく眠れるといいのですが。

「どうしたんだい、子猫ちゃん。そんなに泣いてしまっては、君のかわいらしい瞳が溶けてしまいそうだ」
 おとなみたいに高いところから声がしました。ご主人さまがはっと顔を上げます。その声の主は、さっきのお遊戯のお医者さんでした。
「お医者さん……」
 彼女はしゃがんでご主人さまと目線を合わせ、それからぼくのことも見てくれました。
「おや、この子は……」
「ベアン。ベアンって言うの」
 そういうと、彼女はすこし驚いた顔をしましたが、すぐにまたほほえんで言いました。
「そうか。この子はベアンと言うんだね。ミッシェルにそっくりだから驚いたよ」
「でもこの子はわたしのベアンなの」
「うん。よろしくベアン。……ひょっとして、君はベアンが怪我をしたから泣いていたのかな?」
「うん……足、ベアンの足……」
 彼女はきっとやさしいひとだとすぐにわかりました。なぜって、ご主人さまが彼女に心をひらいてゆくのが、ぼくにもわかったからです。
「お医者さん、ベアンの足、なおせる? さっきのお遊戯みたいに……」
 それを聞いて、ぼくはとてもうれしくなりました。ご主人さまはまだぼくと一緒にいようとしてくれているのです。こんなに素敵なことはありません。このお医者さんはぬいぐるみのことも治してくれるのでしょうか。彼女はすこし考え込んでいるようです。
「……そうだね、今すぐに治すことはできないが、すこし入院すればきっと治るよ」
「どのくらい?」
「そうだね……私たちは、また来週もここでお遊戯をするんだ。もし君がまた来週も来てくれるのなら、そのときまでに治せるように頑張るよ」
「本当?」
 ご主人さまがぱっと笑顔になりました。さっきのお遊戯を観ていたときのような笑顔です。ご主人さまがぼくのために泣いて笑って、ぼくは世界一しあわせなぬいぐるみです。
「ああ、約束しよう。約束をすれば、さみしくても怖くてもへっちゃらさ」
「うん、約束。ベアンのこと、よろしくね」
 そうしてぼくはご主人さまの手を離れて、お医者さんのところで入院することになりました。世の中には恐ろしいひとさらいもいるといいますから、このひとがもしそうだったらどうしよう? とすこしだけ不安になりました。もしそうなら、ぼくがご主人さまを守らなくっちゃなりません。でも、ご主人さまが信じたひとならきっと大丈夫です。

「薫さーん! こころが集合だってー!」
 遠くで誰かを呼ぶ声がしました。ああ、今行くよ、とお医者さんが答えます。お返事をしたということは、このひとのお名前はかおるさんと言うのでしょうか。
「それじゃあ、かわいい子猫ちゃん。また来週、君に会いに来るよ」
「べアンはクマだよ?」
「子猫ちゃんとは君のことさ」
 そう言って彼女は笑いました。おわかれの挨拶をしてご主人さまが去ってから、彼女はぼくに言いました。
「狭くて暗いところですまないが、すこしだけ入っていておくれ」
 そうしてぼくは彼女の鞄の中に入れられ、いつの間にか眠ってしまいました。ご主人さまより長い足で歩くリズムは新鮮で、なのになぜだか懐かしい子守唄に似ていたからです。

 その翌日のことです。
 彼女がそうっとぼくを鞄から取り出したのは、きっと学校という場所なのでしょう。ご主人さまが春から通うのも学校です。ご主人さまが楽しそうに聞かせてくれたことがあるので、ちゃあんとわかります。でもここはご主人さまより大きいひとばかりですし、きっとまた別のところのようです。
「この子が、薫の言ってたぬいぐるみ? ……って、ミッシェルじゃん!」
「この子にはベアンという名前があるそうだよ」
「へえ〜、ベアンか。クマだからかな? そういえば、商店街のクレーンゲームで見かけたことがある気がする」
 かおるさんのおともだちでしょうか。とてもキラキラしている女の子です。何やらお話したあと、その女の子はぼくを抱えあげました。
「うーん……糸が切れちゃったみたいだね……布もすこし破れてるみたい。でも、ちょっと痕は見えるだろうけど、また縫いつければ大丈夫そうだよ」
「それはよかった。急な頼みなのにすまないね」
「いいよいいよ、今日は用事もなかったし」
 なるほど、この女の子はお医者さんの助手さんのようです。
「そういえば、美咲には頼まなかったの? こういうぬいぐるみは美咲のほうが慣れてそうだけど」
「美咲はミッシェルのことがだいすきだからね。ミッシェルにそっくりなぬいぐるみがこんな姿になっているのを見せるのは忍びなかったのさ。だからハロハピの皆にも見せてはいないよ」
「たしかに、こころとはぐみは大騒ぎしそうだね」
 ふたりはそんなお話をしながら席につき、かおるさんは鞄から裁縫道具を取り出しました。真剣な顔で針の穴に糸を通して、手術の準備は整ったようです。
「ホントに教えるだけで大丈夫?」
「ああ。ベアンのお医者さんは私だからね」
「オッケー、それじゃあまずは……」
 かおるさんがぼくの頭をやさしくなでました。そこから先は、意識がふわふわしていたのであまり覚えていません。きっとあれは麻酔だったのでしょう。ご主人さまのママもときどき言うのです。ママの手は魔法の手、痛いの痛いの飛んでいけ……そうすると、ご主人さまは本当に痛いのが治ってしまいます。ご主人さまが痛いとぼくも痛いので、ご主人さまがへっちゃらになったらぼくはすぐにわかります。
 たまむすび、このじぬい、たまどめ……。視界の端をちらつくピンク色の糸と、深い夜の色の髪だけが、くっきり記憶に残りました。

 あともう一回お月さまとお日さまが昇ったら退院できるという日、かおるさんはいつもより遅い時間に帰ってきました。かおるさんはぼくを学校に連れていくことはしませんが、お部屋に戻ってからは、いろんなことを聞かせてくれます。
「ベアン、いよいよ退院だね。明日はハロハピの皆でライブとマジックをするんだ。君にも楽しんでもらえるとうれしいよ」
 マジック! とっても素敵です。ご主人さまはマジックを生で見るのははじめてなので、きっととても驚いてくれます。
「君に私の練習相手になってもらおうかとも思ったのだけれど、せっかくだから明日まで取っておいたほうがいいだろうと思い直してね。こういうのは驚きが大切だろう? だから、君も子猫ちゃんと同じように、明日までのお楽しみさ」
 ぼくは明日がとても楽しみになりました。マジックを観ることも、ご主人さまと一緒にはじめての体験をすることも、何もかもわくわくです。
 ご主人さまが傷痕の残るぼくを見てもまだ愛してくれるかはすこしだけ不安でしたが、そのときは仕方がありません。ご主人さまにぬいぐるみが必要なあいだは、またほかのぬいぐるみとおともだちになれるとよいのですが。
 かおるさんは眠る前に難しそうな本を読みます。ときどき溜息なんてこぼしながら、読み古した、けれど大切に扱われてきた本に、やさしく栞を挟むのです。ご主人さまもおやすみの前に絵本を読み聞かせてもらいますが、栞は挟みません。たとえ途中で眠ってしまっても、また読みたくなったら最初から読むのです。だからぼくは、そんなかおるさんを見るたびに、栞はおとなだ、と思います。ご主人さまもいつか、栞を挟んで本を読むのでしょうか。かおるさんを見ながら考えるのは、いつだってご主人さまのことでした。

 ついに退院の日です。
 かおるさんの鞄に揺られて、ぼくはご主人さまのもとに向かいます。かおるさんの家の玄関を出たところで、かおるさんは一度ぼくを鞄から出して、今日がとてもいいお天気であることを教えてくれました。ご主人さまはぴかぴかのおひさまがだいすきなので、ぼくもうれしくなります。早くご主人さまに会いたくなりました。

 かおるさんは随分早く公民館に着いたようで、まだ誰もいませんでした。ギターケースを降ろしてベンチに座り、鞄からぼくと本を取り出して、そうしてぼくをお膝に乗せて、ぺらぺらと本を捲ります。
 ぼくはぽかぽかのおひさまを浴びながら、ご主人さまが大きくなる日のことを想いました。ご主人さまが大きくなっても、こんなふうに一緒に過ごせるでしょうか。ご主人さまがなりたい大人になれているのなら、そこにぼくがいなくたってもちろん構わないのですが、それでもときどき考えるのです。それをずっと近くで見ていられたら、それだけでぼくはどんなにしあわせでしょう。

「ベアン!」
 ご主人さまの声です! まだお遊戯の時間じゃないのに、ご主人さまが来てくれたのです! ぼくはうれしくなりました。ご主人さまもぼくも、早く会いたいと思っていたということです。それからかおるさんにありがとうと伝えたくなりました。かおるさんが連れてきてくれていなかったら、ご主人さまを待たせてしまうところでしたから。
「よかったね、ベアン」
 ありがとう。

「お医者さん! ベアンの足、なおった?」
 かおるさんに駆け寄ったご主人さまは、挨拶も忘れてそう言いました。いつもはちゃあんと挨拶できるご主人さまですが、今日は仕方がありません。ご主人さまがそのくらいぼくを気にかけていることが、うれしくなってしまいました。
「ああ、もう痛くないよ。……ただ、すこし痕が残ってしまっているんだ。ベアンの傷跡ごと、これまでのようにだいすきでいてくれるかい?」
 かおるさんからぼくを受け取ったご主人さまは、ぼくの足をじっと見つめて、それから顔を上げました。ぼくのだいすきな笑顔です。
「うん! マリーみたいでかわいいよ!」
「……うん。なら大丈夫だ。これで退院だよ」
 ご主人さまは、今までと変わらないハグをぼくにくれました。だから、ぼくはほんとうに、もうすっかり大丈夫でした。
「ありがとう、お医者さん」
「どういたしまして。これからもベアンとなかよくね。……そうだ」
 かおるさんは何かを思い出したようでした。いったいなんでしょう?
「私はね……実はなんにだってなれるんだ。お医者さんにも、マジシャンにも、ギタリストにも、それから王子様にもね。今日の私はマジシャンなんだ」
「じゃあ今日はマジックなの?」
「ああ。楽しみにしていておくれ」
 ご主人さまは、すこし考え込んでいるようでした。お医者さんだと思っていたひとがマジシャンだなんて、たしかに驚いて当然です。
「……わたしね、大きくなったらおもちゃ屋さんになりたいの。ケーキ屋さんにもなりたいし、ユンボにも乗りたい。なれるかな?」
「なれるさ。ベアンもそう思うだろう?」
 もちろん。もちろんだよ、だってぼくのご主人さまは、世界でいちばん素敵なんだから。
「……うん! そうだよね!」

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