別離と永遠

最終更新 2024/11/14


永遠と忘却のわかれ道、寂寞と後悔の荒野

 

「懐古っていうのは、運命の纏う香水のことなんだ。そのにおいを忘れちゃあいけないぜ。いつかまた、きっときみの鼻を擽るから」
「うそ。もうこれで最後な気がする。だから、きみのそのマフラーを頂戴。忘れてしまわないように」
「……しょうがないな」
馬鹿なことはよせ、と言うつもりだった。

 *

「きみに言いそびれたさよならがあるんだ。ぼくと、ジョニーと、ノノとララ、サラマンダー伯爵、みんなみんな。でもぼくらってそういうものだから。せっかく思い出してくれて、きっときみはまた忘れるだろうけど、だからそれでも、ぼくはさよならを言わないよ。でもこれだけは言わせて。きみの友達にしてくれて、ありがとう」
ロボット、二対の人形、ブルーの自転車。遠く輝く思い出。そして、こんな不義理なぼくに語りかけるくまのぬいぐるみ。懐かしく愛おしい柔らかな毛皮。それでも彼は名乗らなかったし、やはり名前は思い出せなかった。

 *

ぼくと彼はそこで永遠にお別れだった。さようならと微笑してみせると、彼は予想を裏切って泣きそうな顔でさようならと返した。その声にはこどもの駄々が滲んでいた。彼はいつだって、最もそうしてほしくないときにぼくを裏切る。ぼくははじめてぼくと彼がずっと友人だったことがわかった。永遠にお別れだった。

 *

熟れゆく果実を見て見ぬふりしていたら、知らぬ間に腐ってしまった。腐った果実は毒にしかならない。果実は重力に従い蟻と蛆の楽園になった。ぼくと彼の運命は途方もなく屈折し、ぼくらは運命の祝福を反故にした共犯者に成り果てていた。あの果実がぼくの心臓だと知っていたら、きっとぼくはもっと熱心だったろう。……彼の心臓は、いったいどうなったのだろう。

 *

肋骨の内側に閉じ込めた果実がじくじくと痛む夜を、きみは知っているかい。いつからか、ぼくの果実が腐りはじめて、血が巡るたびに痛むようになったんだ。ほんとうは自分でもわかっているよ。ひとを最も苛む毒は恋を腐らせて作る。腐った果実はもう元には戻らない。なあ、最初の一匹だけでいいから、ぼくの後悔に集る蝿を追い払ってくれないか。それだけでぼくは満足だから。最初の一匹だけでいいから。

 *

腐って墜落しそうな果実? きみは随分と感傷的な詩人だね。おっかしい……ああいやいや、笑ってすまないね、きみにとっては真剣なことだものね? でもきみが後生大事に抱えているそれは、果実というより今にも割れて飛び散りそうな膿なんじゃないのかい? それが果実だと証明しようというのなら、種を植えてみるほかあるまいさ。芽吹かせるために必要なものが君の手にあるとは思わないけれどさ。

 *

ぼくはようやくここまで来たよ。きみは今頃どこにいるかな。果実だろうが膿だろうが、埋めれば土が豊かになるに違いないのさ。なんだってよかったんだ。ぼくらの眼前にはいつだって荒野が広がっていて、花畑は振り返ったときだけ現れる。……いいじゃないか、実を結ばなくたって。たとえ飢えて死のうが、いいものを見て死ねるんだ。全身を回るこの毒が今では愛おしくて仕方ないよ。この毒だけがぼくの伴侶だ。

 *

さようならこれでぼくらは永遠だ汚れも壊れも腐りもしない

 *

我が最愛の異邦人よ、運命の足音はきみだったのか!

 *

男の胸を、喪失感が揺さぶった。あれは恋ではなかったか。もしかすると、あれが、あれこそが、初恋だったのではないか。だから自分は、あの日々の風のにおいも感触も、すべてはっきり覚えているのではないか。何気ない会話も、そのときの太陽の傾きとそれの生んだ影も、すべてすべて――

 *

「真に無限なのは自転車なんだ。バイクだって車だって、複雑すぎてぼくらの手には負えないよ。それに比べて自転車は無限だ。どこまでだって行ける」

 *

「わたしは常にわたしのための葬列の先頭を切っているつもりで歩いているよ。誰もあとに続きやしないけれどね」

 *

「ねえ、わたしと同じ傘に入ってくださらない?」
「どうして? 傘はふたつあるわ」
「ふたつあるからこそ、同じ傘に入ることに意味があるのよ。あなたと、世界でふたりぼっちになりたいの。折角の雨だから。雨はそれを許してくれるから」

 *

あなたと相合傘をした日のことをあざやかに思い出せる。すこし早い夏服の袖から剥き出しになった白い二の腕の鳥肌も、長い睫毛に乗ったしずくも、ビニール傘と雨のにおいも、頭上を抜けた鉄道の音も。あなたはたぶん、忘れているけれど。

 *

「きみねえ、徹夜なんてするものではないよ」
「なぜ?」
「だって、朝までずっと起きていたら、夜が無限ではないことに気がついてしまうじゃあないか」
「夜はいつだって有限だろう?」
「しかしまぶたを閉じていれば、無限である可能性は失われない」

 *

照り映える薔薇の血潮の朝露を見たらわたしを思い出してね

 *

さようならさればさらばと重ねてもなぜか声にはならないバイバイ

 *

運命とは、旅先で聞く故郷の言葉のようなものだ。あるいは雑踏ですれ違う初恋の相手の香水のような。懐かしく慕わしいものが不意に身体に飛び込んで来るとき、ひとは運命と出会う。
だが運命を常に歓迎できるとは限らない。きみは運命に侵され、暴かれ、粉々に砕かれてしまったんだね。大丈夫、ぼくがきみを捏ねて、焼いて、元通りにしてあげる。ほら、頬のまるい輪郭がかわいい。……ぼくの運命? そんなものはないよ。この世界のどこにも。ぼくが砕いちゃったからね。
「自分で?」
そう、自分で。

 *

釣りびとは、竿を垂らして水面を見ていた。ぼくはそんな彼を見ていた。
「何が釣れますか」
「思い出だよ。忘れてしまった思い出。霞の向こうの記憶を掬い上げる行為は、水面の向こうの魚を釣り上げるのに似ている」
「あれはただの魚ですよね」
「ただの魚なんてこの世にいないよ。ましてやこの川には」
そういえばぼくはこの川の名を知らないのだった。あるいはかつて知っていたことがあったのだろうか?
……俯くと、右手に釣り竿があった。

 *

ぴったり嵌るピースが永遠に失われたパズルを愛せるようになる老眼の進んだ日、ぼくはようやく彼のことを至極穏やかに思い出した。それはつまり、愛せるようになったということだ。愛していると受け入れられるようになったということだ。彼はとっくにこの世界からいなくなっていて、ぼくは単に間に合わなかったのか、だからこそようやくなのか、判ずることはできなかった。けれど、ねえ。ぼくは心のうちでそっと呼びかける。完璧でも純潔でもいられなくなったそのあとを、生きてきてよかったね。こんな日があるなら。こんな日が来るならさ。

送信中です

×

※コメントは最大1000文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!
タイトルとURLをコピーしました