愛と義理

最終更新 2024/11/14


古い情景、湿った諦念、宝物の錯覚

 

「ぼくのためにトディを作ってくれるひとがね、昔もいたんです。砂糖たっぷりのホット・トディ……こんなふうに雪の降る日だった。ぼくは特に傷心だったわけでもなくて、たぶん本当にあの女のきまぐれだったんだ。それでも彼女は、ぼくのためにトディを作ってくれるひとだったんだ……」

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埋めようのない欠乏を涙で埋めるような、血を流しはじめた古傷にありあわせの火をあてがうような、そういう仲だった。「……おまえは慰めに愛という名をつけられるのか?」わたしは尋ねたが、彼は曖昧に笑うだけだった。突き放されたはずなのに、心地よくて溜息が出た。

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「きみの頚椎は人よりひとつ多いのさ。すくなくともぼくにはそう見える」
ひどく不器用な男だった。当然わたしの頚椎の数は普通の人間と変わらぬ七個であったし、肌の下の頚椎なぞ見えようはずもない。今になって知ったことだが、彼が言いたかったのは「きみはぼくの特別だ」ということであったらしい。わたしにあれが告白であったと見抜けという方が酷だろう。彼は愚かだ。わたしに期待するなんて。

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「あなたにホットケーキを振る舞ってみたかったんです」
そう言って彼は笑った。
「ホットケーキはひとりだと途中で飽きるんですよ。作りたてのをつまむのがいちばんおいしい。だから、ひとに振る舞うときでなくちゃ、完璧なホットケーキにはならない」
彼の指先から、バターのにおいがした。

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きみは世界一うつくしい朝焼けを見たことがあるかい? 場所も天候も関係ない。たったひとつ、大切なことを知ってさえいれば、今日の朝焼けが世界で最もうつくしいし、明日の朝焼けは必ずそれを上回る。世界はそういうふうにできている。そういうふうにできていると、ようやくぼくは気がついたのさ。

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「夜明けがうつくしい理由なんて自分で決めたらいい。きみはいつだってぼくを叩き起こして夜明けの海に連れ出していいんだから」

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きみはぼくの世界の輝きを増す不可欠の要素だったんだ。きみと出会ってぼくの世界は変わってしまった。風が吹き、温度を孕み、視界の外まで広がった。全部きみがもたらした。きみはぼくに世界をくれたんだ。きみが死んでしまっても、ぼくの世界のきらめきのすべてがきみだから、何も、何も怖くないよ。ぼくが毎朝きみにおはようということは、きっと死ぬまで変わらない。約束するよ。

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「よくも会ったこともない男の墓にそんなに祈ることがあるね」
「あなたの大切なひとなのでしょう? いくらでもあるわ」
こういうところだ。男は仰け反るような気分になった。彼女のこういうところが、どんどん自分をおかしくする。萌芽したときにはもう手遅れなのだ。既に深く根を張っているから。花なんてきれいなものではない。パンに生えた黴と同じだ。表面を削っても食えたものじゃない。もう二度と。

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「きみが祈っていてくれるなら、ぼくはなんだってできるんだ。だからどうかそんな顔をしないで、ぼくのいとしいひと。ぼくはいつだってきみに許されている。そうぼくが思えるだけでいいんだ。だから心から祈る必要なんてないんだよ」

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湿度が上がるのを感じながら、なんとなく煙草が吸いたいと思った。もうろくに口を閉じることもできないのに――そう自嘲したところで、自分はキスがしたいのだと気づいた。この口寂しさは、彼のくちびるを求めているのだ。途端に何もかも恥ずかしくなって、そして自分がもう後戻りできないことがわかった。既に、とっくに、だめだった。

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彼女は日曜の昼下がりにキャロットケーキを焼くのが好きだった。ぼくはそれがあまり好きではなかった。人参のひとつも食えないこどもだと思われている気がしたから。落ち込んだ日にはチョコチップの入ったクッキーを焼いて、いいことがあった日はケーキの横にホイップが添えられる。今にして思えば、彼女はぼくに入った罅をよくわかっていたんだろう。それに気づくためにはぼくは若く、青かった。今ならわかる。彼女の情けが。あるいはまだ、何もわかっていないのかもしれない。漠然とその予感は、あった。

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欠ける月くすむ真珠になら誓うぼくの愛などその程度だよ

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構わない永遠がほしいわけじゃないまぶたの裏に夢が欲しいだけ

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「彼はきみを試し続けている。こどものようにね。何をどこまでしたら怒るのか、やっぱり自分を嫌いになるんじゃないか……結局、愛されるはずがないと根本的に思ってるのかな。きみを信じていない。そんな男の不安に付き合って一生を終えていいのかい?」
「試す……そんなふうに思ったことはありませんでした」
「それはそれは、随分と都合のいい女がいたものだ」
「わたしには、息継ぎに見えています。彼はずっと水の中でもがいていて……でも、そうですね。わたしは本当は、空気ではなく陸地にならねばならないのでしょう。……いえ、ただの空気でも陸地でもなく、彼が安らげる家に。わたしが本当に彼の女だというのなら……」

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気まぐれのやさしさや必然性のない代用品がそれでも人生の慰めになった肌寒い夜、あなたと出会ったのはそんな夜だったのですよ。あなたにとってはなんでもない、季節さえ朧気なただの夜のことでしょうけれど、わたしにはあなたが月よりまぶしく見えるような、そんな夜だったのですよ……。

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「それは、それだけは、それだけはわたしのものなの……わたしのもの……ほかにはなんにもないの、それしかない……それ以外に、わたしは、この世界のどこにも、いないの……」
そんなことはない、とは言えなかった。言うべきだ、と「ぼくだけのぼく」が強く主張するのが聞こえた。しかし「ぼくのものではないぼく」は、彼女がさらけ出した「彼女」に寄り添うことを非難した。板挟みになって立ち尽くすぼくはもはや誰でも何でもなく、どこにもいなかった。

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あのね、死者の国に持っていける荷物はトランクひとつ分なのよ。あのひとの形見は指輪があるし、あなたの刺繍したハンカチと、お気に入りの茶葉をいくつか、それから本も数冊入れましょう。ちいさなトランクだけど、まだこんなに空いてるわ。だからね、わたしはここに、あなたの抱えきれない苦しみを入れて持ってゆきたいの。わたしはもう眠るから、その間に詰め込んで、鍵を掛けておいて頂戴ね。そうしたら、トランクは棺と一緒に埋めてくれたらいいわ。これが、わたしがあなたにかける最後の魔法。どうか心から信じてね。この魔法の名前は、大丈夫。大丈夫の魔法よ。

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「わたし……いらないわ。こんなもの……持っていたくない……」
「どうか持っていてくれ。でなければ……」
ほとんど声になっていないような掠れた懇願で、彼は言った。
「でなければぼくは、きみを愛していると言えない」
面を上げて目を合わせた彼は、生きながら地獄に落ちる覚悟を決めた顔をしていた。こんなふうにしかラブレターを書けない彼を、わたしはもう、愛さずにはいられなくなっていた。

 *

呼吸を落ち着けて、彼のほうを見た。彼はまるで殴られて育ったこどものような臆病さで、その全身を使ってわたしの様子を窺っていた。それを見た瞬間、何かが胸に湧き起こるのがわかった。
――愛しい。
今このとき、彼のことがどうしようもなく愛しかった。笑ってキスをして抱きしめたかった。これまで自分の中で置きどころがなかった種類のふれあいが、愛の名のもとに在るべき場所を見つけていた。わたしはこれを伝えるために、彼にそうしなければならない!

 *

「ねえ、わたし……あなたに恋をしているのかどうか、それはわからないけれど、いつかあなたを看取るとき、あなたの隣であの詩をくちずさみたいわ。あなたの魂が身体を離れて至るべき場所に辿り着くまで、ずっとずっとうたってあげる。そうしたいと……心から思うわ。約束するから……そうしたら、あなたの孤独は幾許か紛れる?」
どんな恋より、どんな愛より、もっと素晴らしく尊いものが、ぼくの隣で輝いていた。あの地獄で縋った唯一のよすがは、今、ひとりの女の形をしていた。間違いなく、ぼくは世界で最も幸福だった。そしてぼくの至上の使命は、彼女の生涯を幸福にすることだった。

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