白桃に人刺すごとく刃を入れて

トラウマという言葉を使うことに遠慮が拭えずにいる。

自分の人生をどのように物語るのかは自分が決めることで、他人と比較する必要はないと、常々口にしているのはわたし自身であるにも関わらず、トラウマという語に関しては、どうしても自分にはおこがましいように思えて、根深い傷にこそ不思議と使えない。

だからこういう言い方になるが、まだ幼かった頃の誕生日に、ちょっと嫌な思い出がある。具体的には語らないけれど、今でも思い出すし、根深い。わたしの意志や感情が誰にとってもどうでもよくて、誰もわたしに興味がないのにわたしが主役で口実で、わたしは見ず知らずの大人に奉仕する存在だった。自分の気持ちが誰にも届かない。そういう思い出。

大学進学を機に実家を出て最初の十九歳の誕生日、わたしはふらりと一人旅に出た。

それ自体より、寮の最寄り駅に降り立って見た空がとてもきれいで、「帰ってきた」と思ったのをよく覚えている。はじめてひとりで目的もなく遠出して、自分の帰る場所はもうここになったのだと確認できた。それはなんだか、すごくよかった。

それから一年の間に友人たちの誕生日を祝ううち、誕生日への忌避感は薄れていって、二十歳の誕生日は友人たちと祝った。

誕生日を祝われること自体は昔から人並みに好きだったけれど、それがパーティーのような形を取ると途端に怖かった。けれどよくよく考えれば、日頃から理由がなくたって集まりたい友人たちが、たとえ誕生日だからって急にわたしを蔑ろにするはずがないのだった。

桃が好き……になったのも実家を出てからの話だけれど、桃が好きなので、何か桃のおいしいスイーツでも買おうかなと思っている。そう考えると、夏生まれでよかった。

この記事のタイトルは鈴木真砂女の、わたしのいっとう好きな句だ。

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