一年以上前に書いた文章の再掲。あのときしか書けなかったし、今はもう書けない。けれど、今このとき読み返せてよかった。
万策尽きたとき、人は祈ることしかできない。たとえば遠くの戦争、遠くの災害、遠くの悲劇、誰かの訃報。死ははるか彼方なので、これもまた遠い。手の届かないところに向けられた悲しみは当て所なく、人は上を向き、天に祈る。その営みを笑うことはできない。
祈りで腹が膨れることはないが、祈りは空腹を教えてくれるかもしれない。祈りで暖を取れることはないが、祈りは寒冷を教えてくれるかもしれない。祈りとはそういうものだ。祈りだけでは生きてゆけないが、生きようとする自覚を不意に教えてくれることはある。
あるいは、悲劇が遠くで起こっているのに空腹や寒気を感じている罪悪感から祈ることもある。それでもいい。あらゆる祈りはひとしく尊い。
あるいは、まったく身勝手な願いのために祈ることもある。だって好きだから。それでもいい。祈りの形を取るエゴはうつくしい。
遠い。途方もなく遠い。祈りが此岸と彼岸の間に橋を架けることはない。それは多分、ない。
だが、どこにも届かないから祈るのに、祈りが誰かに届くことがある。何かにふれたとき、これは祈りだと感じることがある。そこに双方向のコミュニケーションがなくても構わないし、もちろん愛や感謝を伝えたっていい。人間はただ生きているだけで誰かを救っていることがある。そういうことは、ある。そう思うこともまた、わたしの祈りなのかもしれない。
雨が降るのを待っている。あまねく生命がどうか祝福されますように。途方もない祈りは無にひとしいのかもしれない。それでも、だからこそ、それを祈りながら生きてゆきたい。わたしが愛している誰か、わたしを愛してくれた誰か、わたしが憎んでいる誰か、わたしを憎んでいた誰か、未来で友人になれるかもしれないまだ見ぬ誰か。
わたしの祈りは誰かにとっての呪いなのかもしれない。祈りも呪いも変わらない。それを区別するのは人間の解釈だけだ。わたしも呪われているのかもしれない。それでもいい。わたしは祝福されていると信じられるから。だから、みんな祝福されていてほしい。
この先どうなるかなんてわからない。だからせめて、そう在りたいと思い出せた瞬間だけでも、世界を愛して生きてゆきたい。人間のことを好きでいたい。きっとすぐに忘れて憎悪に身を焦がすだろうけれど、そうしたらまた思い出したい。それを繰り返して生きてゆきたい。
これはエゴだ。わたしが世界に向けるエゴ。だから祈る。せめてそれがうつくしく在るように。
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