猫の微笑は永遠

赤安:ゾンビになった赤井を降谷が殺しに行く話です

・作中に登場する地名・国名は実在のものとは一切関係がありません


 

 某月某日、センセーショナルな話題が世界中を駆け巡った。米国某所のバイオ研究所を発端とするゾンビが発生。映画のような出来事が現実になり、人々は恐怖し逃げ回った。某州のほぼ全域にまで被害が及び、アメリカは、数々の尊い人命はもちろんのこと、政治的・経済的にも多大なダメージを受けることとなった。研究所と被害者団体の裁判は、事件から数年を経た今もなお続いているという。

 その行方不明者リストの中には、赤井秀一の名が含まれていた。死体はまだ見つかっていない。

 あれはいつのことだったか。赤井がアメリカに帰還する、たしか三日前のことだ。なんとなく目があって、なんとなくホテルに行って、なんとなくセックスをした。久し振りだった。互いの名前がライとバーボンであった頃も、そういうことが稀にあった。片手で数えるほど。そのどれもを悲しいくらいはっきりと覚えている。
 曖昧で複雑な感情を持て余すなんて、彼を相手にしたときだけだ。こんなに重い気持ちでセックスをするのも、それと裏腹に高く飛んでしまうのも。しかし、だからなんだというのだ。それがなんらかの形で実を結ぶとは、僕にはどうしても思えなかった。

 肉体関係を持たなかった数年、僕らの間には様々な出来事があった。たかが数年、されど数年。濃密な年月はピロートークに思い出話を差し向けてしまうものだ。それはなんだか愚かしいような滑稽なような気がしたが、結局、歳を取ったのだ。歳を取って、そういう自分を許容できるようになった。
「そんなに嫌でしたか。死んだと僕に思われるのは」
 ベルツリー急行での話だった。僕がついに彼の生存を諦めようとしたそのとき、リスクを犯してまで姿を見せた彼。
「ああ。君にだけは、諦めてほしくなかった」
 ベッドの上でゆったりと煙草を吸う彼は、そう言って悠然と微笑した。そういう仕草が様になる男だ。腹が立つ。
「黙って死んだことにしていたほうが、都合がよかったくせに」
「……言わせる気か? 俺はわがままな男だからな。他の何よりどうしても君に――」
「やっぱり言わなくていいです」
 踏み込みたくないと思った。ここでその先を聞いたら、彼は僕らのゆく先をとんでもない地点に設定してしまうような気がした。いや、確信していた。それを確信してしまえるくらい、たぶん僕もわかっていたのだ。僕と彼はそのくらい、どうしようもないところまで来ていた。だが、その先に縁遠いはずの痛みがあることも、僕にはわかっていた。慣れ親しんだ痛みを新たな痛みで癒やすなんて、そんな馬鹿げた話があるだろうか? それを選ぶ馬鹿に、僕はなれない。彼はそうなりたがっているのかもしれなかったが、僕はそれを明確に拒絶した。
 だから、僕らはこれで終わりのはずだった。意趣返しのように彼が僕の顔に吹きかけた煙のにおいを僕は忘れずにいて、彼もたぶんこの一夜を忘れない。それで何もかも終わりだったはずなのに。

 夢だ。窮屈で不自然な姿勢のもたらす浅い眠りの見せる夢。
 僕は数十時間のフライトを経てアメリカの地に降り立っていた。赤井秀一を探すために。渡米自体は仕事だったが、スケジュールに都合をつけて二日間を確保した。一日目はバイオ研究所の関係者に会い、二日目は現地に向かう。僅かな時間で何ができるのかはわからないが、何もしない自分には違和感があった。彼が僕の細胞をそう作り変えたのだ。かの地にいながら彼を探さないなんて、降谷零として不自然だ。それを実感させられて、じゃああのとき彼を拒絶したのは間違いだったのかと考える。考えてしまう。
 答えは出ない。当たり前だ。人生はつづいているのだから。

 仕事を終わらせ、必要な道具を揃えて惨劇の地となった某州に向かう。立ち入りは今でも制限されているが、昨年からは軍の見張りもなくなった。侵入自体はきわめて容易だ。
 放置された家々は、かつて観たチェルノブイリのドキュメンタリーを思い起こさせた。果たしてこの地に復興はあるのだろうか。あれから昇進し、外務省への出向も視野に入ってきたが、未だに政治というものは僕の遥か頭上で動かされている感覚がある。
 この事件の被害拡大を食い止めた最大の要因は、迅速に防衛線をさだめたことだとされている。そう言えば聞こえはいいが、つまるところ米国はこの近辺を丸ごと見捨てたのだ。軍上層部は人間かゾンビか判断のつかない状態での射殺を即座に許可・徹底し、きっと多くの人間が人間のまま殺された。極限の一手だったろうと僕は思うが、政府をバッシングする多くの文書が世界中に出回った。逃げ延びた少年が兵士の胸に抱きついて涙を流す写真と、そのとき彼が叫んだという「I blasted my father, but I’m alive!」は、各国のメディアに取り上げられ、SNSではハッシュタグと共に拡散された。この地で狙撃手をつとめた兵士のカウンセリングにあたった医師の手記も飛ぶように売れ、映画化もされた。ゾンビの登場するドキュメンタリー映画はおそらく史上初だろう。そう銘打たれていた。
 静かだ。おだやかな風が吹いていた。
 リビング・デッド。果たしてそれは生きていると言えるのだろうか。それはつまるところ「動く死体」だ。仮に彼がゾンビだとして、その肉体は彼の思考も感情も歴史も宿していない。そんな彼を赤井秀一と呼べるのか? ただの死体なら来葉峠のビデオのように赤井秀一として見ることができるが、ゾンビだったらどうだろう。たとえば僕らが恋人だったなら、どんなあなたでも好きだと言って、そんな彼すらも愛したのかもしれない。でも、僕らはそうじゃない。正直に言えば安心している。あのとき彼に何も言わせなくてよかった。遠ざけるべき痛みを遠ざける選択は、間違ってはいなかったのだ。
 赤井秀一は、たぶん生きてはいない。その予感は不思議なほど身体に馴染んでしまっていた。僕は赤井秀一を、きっと愛していない。

 あの夢のつづきを、僕は覚えている。

「でもあなた、いつか本当に死ぬときは、きっと猫みたいに姿を消すでしょう。誰にも知られないように。死んだことさえ悟らせず」
「……すくなくとも君には。俺のご主人さまは君だからな」
「笑えない冗談はやめろ」
「君が冗談にさせたんだろう」
 煙が目に染みて、涙が出そうだった。俺のために泣いてほしいと、彼は言わなかった。だが、そういう顔はしていた。

 あのとき彼は不満げだったが、それに対する申し訳なさはなかった。それでいいと思っていたから。
 赤井の足跡がこの地で途絶えたのは確かだった。とある事件の調査のためにFBI数名がちょうどここを訪ねていたらしい。行方不明者リストの中には彼の同僚の名前もあった。
 僕が掴んだ情報によれば、彼らが調べていたのはまさにこのバイオ研究所の件らしかった。しかし詳細は藪の中。可能な限り遺体の回収と原因の究明はなされたが、上層部の様々な思惑が絡み合った末にそれ以上のことはされていないらしい。外事のコネまで使ったが、わかったのはここまでだ。

 ほどなくして研究所跡地に到着した。硝子の破片、壁の弾痕、流石に遺体は残っていないが、そこかしこに惨劇の傷跡が残っていた。
 懐の銃を確認して歩みを進める。ここに来たところで何かが得られる可能性は低いだろう。僕は状況を打破して真実に辿り着く探偵ではなく、ただ国家と国民に献身するだけの警察官だ。ましてやシルバーブレットと呼ばれた彼らのような存在ではない。
 それでも、この目で見ておきたかった。姿を消した猫を、無粋と知りながら追いかけたかった。生前の彼の傲慢を思えば、この程度は許されて然るべきだろう。

 研究所内の全フロアをひとしきり巡ったが、これといった収穫はなかった……と言いたいところだが、ここまでは前哨戦だ。まだ地下室が残っている。事前に入手した図面には記載がなかったが、関係者との接触でその存在は突き止めていた。何かあるとすればその秘匿された地下だろう。
 隠し扉の奥の階段を降りる。流石に空気が籠もっていて埃っぽい。吐き気を催す悪臭がどこからか漂っていた。なんだかゲームみたいだな、と他人事のように思った。日光が差し込まないため懐中電灯を点けた。そういえば、あの少年たちは面白いライトを持っていた。
 地下の研究室は、どことなくかつて潜入していた組織を思い起こさせた。人倫に悖る調薬や実験、違法な取引。そこで出会った僕と彼。初恋のひととその家族。僕らの数奇なつながり。今となってはそのどれもが過去だ。
 悪臭はどんどん強くなる一方だった。耐え難い腐敗臭。きっと僕は、あの煙草のにおいが嫌いではなかった。そんなことを考えた。考えてしまった。そんな馬鹿なことを。

 臭気の根源はなんの変哲もない本棚だった。ここまではセオリーだな、とそれを横にスライドさせる。そして現れたこれまたなんの変哲もない壁面にも何か仕掛けがあるらしいと聞いたが、重要なのはプロセスではない。このために持参したバールで容赦なく抉じ開ける。その向こうには、さらなる地下への階段があった。迷わず降りる。予感があった。この先に彼がいるという予感。彼は僕を待っていないという予感。
 カン、カン、カン。足音がよく響いた。聞こえているか、赤井、この僕の足音が。僕は今、わざと高らかに鳴らしているんだ。
 もうすっかり鼻が曲がってしまっていた。身につけているものは後ですべて捨てなくてはならないだろう。とても洗ったところでどうにかできる臭気ではない。最初からそのつもりではあったが。
 たとえあの煙草とすれ違っても、今の状態ではわからないだろう。

 扉の向こう、部屋の最奥。果たして赤井秀一はそこにいた。いや、赤井秀一はもういない。僕がかつて赤井秀一と呼んだ存在がいるだけだ。
「……久しいですね」
 声を掛けたが、返事はない。僕を奥底からざわめかせる彼の声を、僕はもう聞かなくていい。聞くことができない。
 彼は己の左手と机の脚を手錠でつないでいた。誰かが命懸けでそれをしたとは思えなかった。おそらく彼はここに辿り着き、感染し、誰も襲わないようにみずから閉じこもったのだろう。何年もここに、たったひとりで。かつての彼なら抜け出すことなんて容易いだろう拘束も、今の彼ならじゅうぶんに縛れる。それは腹立たしく、同時に、胸を締め付けるような……さびしいだとか、せつないだとか、そういう類の感情を喚び起こすものだった。

「あなたは……そんな姿を僕に晒したくはなかったでしょうね。僕も見たくなかった。……それでも、ここに来た。今この場で弾丸を持っているのは僕だ」
 不思議な心地だった。
 僕はたしかに怒っているはずだった。こんな醜態をこの男が見せるなんて、許し難い裏切りであるはずだ。それなのに、どうしてだか、他方で得体の知れない感情も湧き上がっていた。
 ――この男が、ほんのすこしだけ、かわいい。
 そうだ、かわいい。かわいいのだ。今の彼は、かわいい。
 静かに唸り、無為に蠢く、有害なゾンビと化した男が、今になって、かわいい。濁った目は僕を見ていない。狙撃も推理も煙草も愛車も、僕のことも、何もかもに興味を失った彼のことが。そうなってなお、ではなく、こうなってようやく、かわいい。

 もし彼を見つけたら、彼の家族のもとへ送り届けてやろうと思っていた。それで終わり。今度こそ、本当に終わり。そう思っていた。
「望み通りのご主人さまじゃなくてすみませんね。探しに来ちゃいましたよ、猫ちゃん」
 僕の焦がれた姿とは程遠くなりやがって。かわいさなんてほんの一欠片だ。だが、それは無視できない一欠片だろう。だって僕の心臓は、今も動いて、そう言っている。
「あなたは僕にだけはこんな姿を見せたくなかったでしょうけど、でも、わかってたんじゃないですか。見つけに来るのは僕だってこと。……あなたがこんなところに引き籠もったのは、犠牲者を増やさないためでしょうけど……僕のこと、すこしは考えませんでしたか。こんなところまでわざわざ探しに来るのは僕だけだって。ねえ……なあ、赤井……」

 拳銃を構える。狙いを定める。引金に指をかける。彼の頭を、砕く。沈黙。依然として悪臭。

 猫は僕の手で殺した。ご主人さまに死を見せたがらないかわいい猫を、僕が、探し出して、殺した。
「今度はお前の望みを僕が裏切った。……お前みたいに言うなら、これでフィフティ・フィフティ……」
 彼はもう動かない。僕は一歩ずつ近づく。
「フィフティ・フィフティなんて、お前だから言えることだよ。お前は結局、いつも勝ってる。最後まで。僕はお前に勝てない」
 ゾンビの身体は脆い。こんな小銃で粉砕されてしまった頭部に、満足げな微笑のまぼろしを見た。それが何よりの敗北だった。
 涙は出なかった。目に染みる煙がなかったから。硝煙はその役割を果たさなかった。

 彼の懐を探ると、煙草とマッチが出てきた。拳銃はなかった。理性が残っている間に誰かに渡したのだろうと、そう当たり前に思った。彼が誰かに銃を奪われるはずがない。あのときの屋上のような状況でない限り、絶対に。自決用の銃すら捨てて、誰かの生存のためにそれを託す。そのほうが彼らしい。真実なんて今更わかりはしないが、だからこそ、そう信じていたかった。
 彼の隣に座って、煙草に火をつけた。湿気てぱっとしなかった。せめて彼に最期の一服があったことを願った。僕が彼のために願えるのは、せいぜいそのくらいだ。
「僕が気づかなかっただけで、あなたは昔からかわいかったのかもしれませんね」
 肝心なことほど間に合わないものだ。あの屋上にも、この感情にも、この関係にも、僕は間に合わなかった。彼はいつも先にそこに到達していて、だから僕は、今度こそそこに行きたくなかったのに。
 煙草のにおいはやはりわからなかった。だが、地下に降りてからずっとあったはずの吐き気を唐突に思い出した。彼の姿を見たときから、そんなことは忘れていたのだ。彼を前にすると、身体が勝手に彼を最優先にする、懐かしい感覚。ゾンビになっても、やっぱり彼は赤井秀一なんだな、とどこか冷静に思った。
 地下の酸素は薄かった。まるで生前の彼を目の前にしたときのように、息苦しい。そんなことにも今更のように気づいた。
「……こんなことなら、恋人になってもよかったのかもな」
 返事はない。
 ふと、彼の家族にコンタクトを取るとき、実は恋人だったんです、だから探して殺したんですと、言ってみてもいいかもしれないと思った。死者への冒涜だろうか。だが、そのくらい傲慢に振る舞って、はじめてフィフティ・フィフティと呼べる気がした。満たされたような、虚ろなような、不思議な気分だった。

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